2019年1月6日 | Re・コーポレーション

水回り歴史よもやま話



水回り設備歴史よもやま話

水回り設備歴史よもやま話

水回り歴史よもやま話:お風呂

今日お風呂といえば湯につかることを言いますが、平安時代に木で作った船のような浴槽や、鎌倉時代に直径2m深さ70㎝の鉄湯船が見つかっている以外、お風呂とはもともと蒸気風呂のことを指しました。水の調達がなかなか大変な時代ということもあり、一般的に湯につかるという習慣はなかったようです。
 それが、江戸時代の前期にようやく、木製の風呂桶の底の鉄の箱に薪を焚いて湯を沸かすお風呂ができ、そのうち底の部分だけ鉄製の桶風呂ができ、かの盗賊石川五右衛門が豊臣秀吉にこの釜で釜茹での刑で処刑されたことから、五右衛門風呂と呼ばれるようになります。このお風呂のルーツは一説によると、豊臣秀吉の朝鮮出兵の陣中で臨時に工夫されたものが始まりであるとされていますが、煙突がないため非常に煙たかったようです。
 さてその後、関西では長州風呂という浴槽全体が鉄製の風呂ができ、いつからか、このお風呂も五右衛門風呂と呼ばれるようになります。しかし、お湯に入ることは非常に贅沢なことであることから、まだまだ、入浴の習慣はなかったようです。明治10年位に今のような湯をたっぷり入れた銭湯が出現していますので、お湯につかる習慣ができてきたのは明治になってからのことです。ちなみに、それまでの銭湯は足湯付の蒸気風呂(柘榴口式浴場)でした。この銭湯は、男女混浴で、かなりの人気でしたが、明治17年、警視庁が、風紀上の問題から禁止し、姿を消すこととなりました。
 明治以降、庶民に入浴の習慣ができると、大正、昭和と五右衛門風呂は使われるようになりましたが、薪が高価でいつも入るという訳にはいきませんでした。戦後都市部では空襲で全て焼けてしまったので、風呂付の家などはなくなり、(水道式のカランが付けられたのは、昭和2年のようですが、内湯として、家庭内にお風呂が普及し一般的になったのは高度成長期の昭和30年代後半です。)普及まで時間を要しましたが普及後、五右衛門風呂は、昭和の50年代以降まで、使われていました。ちなみに水気のあるお風呂は母屋の白蟻被害を防ぐ意味合いや火や煙を離すという理由で、家の外の土間におかれていました。現在のように家庭内に置くようになったのは、昭和30年代鋳物ホーロー浴槽登場以降のことです。

鋳物ホーロー浴槽の元祖は五右衛門風呂であり、それから進化を経て今のお風呂があります。

出典元:キッチン・バス工業会

ユニットバスの発祥は1964年の東京オリンピック

 今では当たり前のユニットバスですが、このユニットバスができたのは、実は日本であり、1964年に開催された東京オリンピックがきっかけでした。当時の観光客が宿泊するためのホテルの建設ラッシュの折、オリンピック開会に間に合わせるために、ホテルニューオータニ(17階建て全1058室)を常識では考えられない、超短期の工期17カ月で建設することが必要とされ、左官屋さんやタイル屋さんに入ってもらって在来通りの工法で仕上げていては、とてもではなく間に合わなかったといいます。工期短縮で不可欠な、浴室工事の短工期化と浴室の軽量化がどうしても必要で、設計施工を担当する大成建設から、浴室のプレハブ化(あらかじめ工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法)を依頼された当時の東洋陶器(現在のTOTO)は、工場で生産・加工した部品を現場で組み立てるだけの「セミキュービック方式のユニットバス」を開発し、無事ホテル建設に間に合ったとされています。

 軽量化のために、今までアメリカ海軍のボートにしか使われていなかったFRP樹脂を使ってFRP製の浴槽ができたのはこの時が初です。【訂正】1958年に伊奈製陶(後のINAX、現在のLIXIL)が日本初のFRP樹脂製浴槽を発売していたそうです。(床や室内に使ったことはこの時が初です。)

 結果的に、このユニットバスが後々になって、今までの工法に比べ、防水性に優れるということのほかに、施工性やメンテナンス性などが受け入れられ、他メーカーでも続々と製造され、現在では当たり前になっていることはご存じのとおりですが、この時代の東京オリンピックがお風呂の文化を担ったといえるほどお風呂史上、歴史的なことなのかもしれません。

出典元:TOTOミュージアム