水回り歴史よもやま話:トイレ
野山を歩いていて便意や尿意を感じた時、やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)、これが屎尿処分の原点で、旧石器時代はそうだったと考えられています。やがて縄文時代で、一定の集落ができてくると、そこいらじゅうでするわけにはいかないので、野外の特定の場所で排泄するようになりました。縄文時代、弥生時代のトイレは川岸に張り出した所にあり、川に直接排便をしていました。水洗トイレのルーツはこのころから、すでにあったといえます。現在は、川の中にも杭などが残っていませんが、遺跡では杭の先だけが川底に残っている場合があり、その付近の川底から糞石(化石)が見つかる事があります。縄文時代から、1万5千年後の奈良時代までは、多くの場合、川で用を足しており、「川屋(かわや)」からトイレを表す「厠(かわや)」という言葉が生まれたとされています。
それ以降は生活の場に隣接している貝塚やごみ溜めの付近を、トイレ代わりに使っていたのではないかと推察されます。外で用を足すのが、奈良、平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルとされ、やがて、平安時代になると、貴族はしゃがみ式おまるである樋箱の一種で御小用箱と呼ばれるものを使用し、1,000年以上後の江戸時代までこの形が使われました。平安時代後期には、上流階級の邸宅にいわゆる「ボットン便所」が備え付けられる事もありましたが、庶民は一般的に外で用を足していたようです。ついでに、日本人がトイレで紙を使うようになったのは平安時代といわれていますが、これは貴族だけのことであり、江戸時代までは、関東では「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる割り箸のような木片を使い、関西では「縄」にまたがりお尻を拭いていたようです。
さて、戦乱の乱世を経た約800年前の鎌倉時代から江戸時代にかけて、徐々にトイレ環境も整備されていきます。これは、衛生面の配慮からくる整備ではなく、溜まった排泄物を、農作物を育てる肥料として、活用するためという理由からのようです。ちなみに世界に目を向けますと、16~18世紀頃のヨーロッパのトイレ事情は悪く、貴族人も香をたいた携帯のオマルを持参して用を足しており、従者がその中身を宮殿の庭に捨てていたようで宮殿の敷地の中は糞尿のにおいで悪臭がしたという話は知られてますが、16~18世紀頃といえば日本では戦国時代~江戸時代あたりになります。ヨーロッパやパリなどは香水などもおしゃれなイメージがありますが、この悪臭を紛らわせるために香水ができたといわれています。ちなみに女性用のハイヒールは汚物を踏まないように、この時に誕生したともいわれています。(諸説あります。)
さて、江戸時代に入ると、糞尿のほとんどすべてが下肥として使用されるようになり、江戸では、近郷の農家が野菜と交換に争って糞尿を汲み取らせてもらうようになります。また、糞尿は商品として流通するようになり、専門の汲み取り業者によって、江戸の糞尿は河川を利用して、関東各地へ肥船で運びだされました。当時の江戸が、人口100万人を超える世界最大の都市に成長し、かつ極めて清潔に保たれた背景には、始末に困る糞尿を下肥として使用し、農業の生産性を高める循環システムが確立されたためであるといわれています。ちなみに、糞尿の値段は、幕末の記録では、1年間、大人10人分で、2分か3分(1両=4分)程の値段で取引されていました。この循環システムは明治、大正まで続きます。
一方、トイレの形態としては、木製の桶状可動式便器(置便)を設置し、用便後、溜まった小便を定期的に捨てる方式のものができましたが、この方式は捨てる作業が面倒な為、そのうち便器の底に穴を開けて固定式で使用する方式のものに変わっていきました。そのとき、便器は木製でしたが、木製の便器は腐食しやすく、耐久性を高める為に、陶器で製作されるようになりました。元になった置便のときの四角い形を踏襲し、明治までは表面に絵柄が染付けされていました。その後、品質を高める為に高温で焼成するようになりましたが、このとき便器の形状が歪の出にくい小判形に変わり、その形状が今も和風便器の形状として引き継がれています。
さて、トイレを取り巻く情勢ですが、大正時代になると、安価な化学肥料の大量生産などが原因で糞尿の価値は低落し、大都市近郊の糞尿は料金を支払って汲み取り業者に回収してもらうようになります。東京で屎尿の汲み取り料金、つまり、汲み取ってもらう側が相手に金を支払うようになったのは1933年(昭和8年)になってからです。戦後になって、人口の都市集中化が進み、糞尿の行き場がなくなります。糞尿は寄生虫の問題も加わって、徐々に厄介者になって行きますが、糞尿の下肥として利用は昭和30年代までつづき、糞尿の海洋投棄や山林投棄による処分もつい最近まで行われていました。
その後、日本の大半のトイレは、下水道の普及や浄化槽の利用による水洗化の道を歩みます。明治時代には水洗トイレが設置されはじめました。東京の築地ホテル館や、明石町メトロポールホテル、大阪造幣局寮等に設置されたという記録が残っています。陶器製の便器も、1891年(明治24)の濃尾大震災後に普及しはじめ、関東大震災後には大普及しました。昭和30年に発足した日本住宅公団(現住宅都市整備公団)は、新しい住宅設計や設備をとおして、日本人の生活を大きく変えてきました。その最たるものが、椅子に腰掛けて食事するダイニングキッチンスタイルで、もうひとつが洋式トイレです。水洗トイレが標準仕様とし、登場したのは昭和30年頃のことで、この時は和風大小両用便器で、当初は和式が採用されていましたが、昭和33年に大阪で洋式が初採用されて以来、全面的に洋式トイレになりました。洋式トイレは大小兼用でコンパクトかつ衛生的である点、また膝や姿勢に負担がかからず、とくに日本人に多い脳卒中や痔疾の予防によいという点などが普及の理由です。当時、このはじめての便器の登場で、洋式なのにまたいだり、和式便所なのに腰掛けたりと、座り方がわからず戸惑いをもった人がいたのも無理はありません。
現在、トイレは温水洗浄便座、抗菌便座、自動脱臭便座などの登場により、快適な生活空間の一部となりつつあります。
ちなみにウォシュレット(シャワートイレ)は、TOTOが1980年6月に開発・発売したものが最初です。お尻だって洗ってほしいという当時のCMのキャッチコピーは斬新でした。
現在キャンプ場や山小屋などでは、バクテリアの働きで糞尿を自然に戻す「バイオトイレ」が実用化されています。そして、トイレは更に進化をつづけ、近い将来、便器に座るだけで健康状態を管理することができるトイレが登場する可能性もありそうです。