水回り設備歴史よもやま話 | Re・コーポレーション

水回り歴史よもやま話



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水回り歴史よもやま話:キッチン

キッチンのルーツは、縄文時代の炉だといわれています。旧石器時代は屋外にあった炉ですが、時代とともに竪穴住居の中央に移され、暖や料理に使われます。つまり、縄文時代から水を使う以外の台所機能がすでに存在していたようです。炉は、たんに地面を浅く掘って火を燃やす地床炉から、石で囲んだ石囲炉、甕(かめ)を埋め込んだ埋甕炉へと、だんだん複雑な形式に変化します。また、住居の形が丸から四角い形に変化するにつれ、炉の位置が竪穴中央から次第に端へ移っていきました。狩猟で食料確保していたものが、次第に食料のたくわえがきく、稲作農耕社会となったのは、弥生時代でした。
平安時代ころには、火をできるだけ起居の場から遠ざけるために、別棟に台所がつくられるようになりました。それが、火と水の機能がひとつになって家の中にふたたび取り込まれたのはそれから、1,000年あとの、江戸時代前期ごろで台所の革命といえる記念すべき大ニュースだったのです。その後この時代の、土間にかまど、七輪のスタイルは200年以上続きました。
しかし、文明開化といわれた明治になっても、台所は文明開化とはいかず、料理は座った姿勢で、行わなければならず、江戸時代と何ら変わることなく、立ったり座ったり、大変な労働が必要な台所でした。完全に土間から床上に移され立って料理ができるようになったのは、昭和になってからです。これは、ガス、電気などの燃料や、下水・水道の整備、防水機能を備えたステンレスの流しなどの登場が、革命をもたらしたからです。今では当たり前の水道ですが、それまでは、井戸や、川の水を運んできて、手作りのろ過装置を経由させた水を使っていましたので、蛇口をひねれば水が出てくるということも、その時代の女性たちにとって夢のようだったのではないでしょうか。ましてやお湯が出るなどということは、驚くことではないでしょうか。ちなみにステンレス流し台は昭和31年に晴海団地のダイニングキッチンに初めて導入され、一般家庭にも普及し、昭和40年代後半には空間や用途にあわせてキャビネットやユニットを選択できるシステムキッチンが登場しました。

今では当たり前のキッチンスタイルも歴史的な流れを汲んでいると思えば、時間が文明を作ったともいえます。



出典元:暮らしの博物館

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水回り歴史よもやま話:お風呂

今日お風呂といえば湯につかることを言いますが、平安時代に木で作った船のような浴槽や、鎌倉時代に直径2m深さ70㎝の鉄湯船が見つかっている以外、お風呂とはもともと蒸気風呂のことを指しました。水の調達がなかなか大変な時代ということもあり、一般的に湯につかるという習慣はなかったようです。
 それが、江戸時代の前期にようやく、木製の風呂桶の底の鉄の箱に薪を焚いて湯を沸かすお風呂ができ、そのうち底の部分だけ鉄製の桶風呂ができ、かの盗賊石川五右衛門が豊臣秀吉にこの釜で釜茹での刑で処刑されたことから、五右衛門風呂と呼ばれるようになります。このお風呂のルーツは一説によると、豊臣秀吉の朝鮮出兵の陣中で臨時に工夫されたものが始まりであるとされていますが、煙突がないため非常に煙たかったようです。
 さてその後、関西では長州風呂という浴槽全体が鉄製の風呂ができ、いつからか、このお風呂も五右衛門風呂と呼ばれるようになります。しかし、お湯に入ることは非常に贅沢なことであることから、まだまだ、入浴の習慣はなかったようです。明治10年位に今のような湯をたっぷり入れた銭湯が出現していますので、お湯につかる習慣ができてきたのは明治になってからのことです。ちなみに、それまでの銭湯は足湯付の蒸気風呂(柘榴口式浴場)でした。この銭湯は、男女混浴で、かなりの人気でしたが、明治17年、警視庁が、風紀上の問題から禁止し、姿を消すこととなりました。
 明治以降、庶民に入浴の習慣ができると、大正、昭和と五右衛門風呂は使われるようになりましたが、薪が高価でいつも入るという訳にはいきませんでした。戦後都市部では空襲で全て焼けてしまったので、風呂付の家などはなくなり、(水道式のカランが付けられたのは、昭和2年のようですが、内湯として、家庭内にお風呂が普及し一般的になったのは高度成長期の昭和30年代後半です。)普及まで時間を要しましたが普及後、五右衛門風呂は、昭和の50年代以降まで、使われていました。ちなみに水気のあるお風呂は母屋の白蟻被害を防ぐ意味合いや火や煙を離すという理由で、家の外の土間におかれていました。現在のように家庭内に置くようになったのは、昭和30年代鋳物ホーロー浴槽登場以降のことです。

鋳物ホーロー浴槽の元祖は五右衛門風呂であり、それから進化を経て今のお風呂があります。

出典元:キッチン・バス工業会

ユニットバスの発祥は1964年の東京オリンピック

 今では当たり前のユニットバスですが、このユニットバスができたのは、実は日本であり、1964年に開催された東京オリンピックがきっかけでした。当時の観光客が宿泊するためのホテルの建設ラッシュの折、オリンピック開会に間に合わせるために、ホテルニューオータニ(17階建て全1058室)を常識では考えられない、超短期の工期17カ月で建設することが必要とされ、左官屋さんやタイル屋さんに入ってもらって在来通りの工法で仕上げていては、とてもではなく間に合わなかったといいます。工期短縮で不可欠な、浴室工事の短工期化と浴室の軽量化がどうしても必要で、設計施工を担当する大成建設から、浴室のプレハブ化(あらかじめ工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法)を依頼された当時の東洋陶器(現在のTOTO)は、工場で生産・加工した部品を現場で組み立てるだけの「セミキュービック方式のユニットバス」を開発し、無事ホテル建設に間に合ったとされています。

 軽量化のために、今までヘルメットくらいにしか使われなかったFRP製の浴槽ができたのはこの時が初です。

 結果的に、このユニットバスが後々になって、今までの工法に比べ、防水性に優れるということのほかに、施工性やメンテナンス性などが受け入れられ、他メーカーでも続々と製造され、お風呂の文化といっても過言でないほど歴史的なこととなりました。

出典元:TOTOミュージアム

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水回り歴史よもやま話:トイレ

野山を歩いていて便意や尿意を感じた時、やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)、これが屎尿処分の原点で、旧石器時代はそうだったと考えられています。やがて縄文時代で、一定の集落ができてくると、そこいらじゅうでするわけにはいかないので、野外の特定の場所で排泄するようになりました。縄文時代、弥生時代のトイレは川岸に張り出した所にあり、川に直接排便をしていました。水洗トイレのルーツはこのころから、すでにあったといえます。現在は、川の中にも杭などが残っていませんが、遺跡では杭の先だけが川底に残っている場合があり、その付近の川底から糞石(化石)が見つかる事があります。縄文時代から、1万5千年後の奈良時代までは、多くの場合、川で用を足しており、「川屋(かわや)」からトイレを表す「厠(かわや)」という言葉が生まれたとされています。

それ以降は生活の場に隣接している貝塚やごみ溜めの付近を、トイレ代わりに使っていたのではないかと推察されます。外で用を足すのが、奈良、平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルとされ、やがて、平安時代になると、貴族はしゃがみ式おまるである樋箱の一種で御小用箱と呼ばれるものを使用し、1,000年以上後の江戸時代までこの形が使われました。平安時代後期には、上流階級の邸宅にいわゆる「ボットン便所」が備え付けられる事もありましたが、庶民は一般的に外で用を足していたようです。ついでに、日本人がトイレで紙を使うようになったのは平安時代といわれていますが、これは貴族だけのことであり、江戸時代までは、関東では「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる割り箸のような木片を使い、関西では「縄」にまたがりお尻を拭いていたようです。

 さて、戦乱の乱世を経た約800年前の鎌倉時代から江戸時代にかけて、徐々にトイレ環境も整備されていきます。これは、衛生面の配慮からくる整備ではなく、溜まった排泄物を、農作物を育てる肥料として、活用するためという理由からというから、意外ですが、現実的です。

 江戸時代に入ると、糞尿のほとんどすべてが下肥として使用されるようになり、江戸では、近郷の農家が野菜と交換に争って糞尿を汲み取らせてもらうようになります。また、糞尿は商品として流通するようになり、専門の汲み取り業者によって、江戸の糞尿は河川を利用して、関東各地へ肥船で運びだされました。当時の江戸が、人口100万人を超える世界最大の都市に成長し、かつ極めて清潔に保たれた背景には、始末に困る糞尿を下肥として使用し、農業の生産性を高める循環システムが確立されたためであるといわれています。ちなみに、糞尿の値段は、幕末の記録では、1年間、大人10人分で、2分か3分(1両=4分)程の値段で取引されていました。この循環システムは明治、大正まで続きます。

 一方、トイレの形態としては、木製の桶状可動式便器(置便)を設置し、用便後、溜まった小便を定期的に捨てる方式のものができましたが、この方式は捨てる作業が面倒な為、そのうち便器の底に穴を開けて固定式で使用する方式のものに変わっていきました。そのとき、便器は木製でしたが、木製の便器は腐食しやすく、耐久性を高める為に、陶器で製作されるようになりました。元になった置便のときの四角い形を踏襲し、明治までは表面に絵柄が染付けされていました。その後、品質を高める為に高温で焼成するようになりましたが、このとき便器の形状が歪の出にくい小判形に変わり、その形状が今も和風便器の形状として引き継がれています。

出典元:TOTOミュージアム

さて、トイレを取り巻く情勢ですが、大正時代になると、安価な化学肥料の大量生産などが原因で糞尿の価値は低落し、大都市近郊の糞尿は料金を支払って汲み取り業者に回収してもらうようになります。東京で屎尿の汲み取り料金、つまり、汲み取ってもらう側が相手に金を支払うようになったのは1933年(昭和8年)になってからです。戦後になって、人口の都市集中化が進み、糞尿の行き場がなくなります。糞尿は寄生虫の問題も加わって、徐々に厄介者になって行きますが、糞尿の下肥として利用は昭和30年代までつづき、糞尿の海洋投棄や山林投棄による処分もつい最近まで行われていました。

 その後、日本の大半のトイレは、下水道の普及や浄化槽の利用による水洗化の道を歩みます。明治時代には水洗トイレが設置されはじめました。東京の築地ホテル館や、明石町メトロポールホテル、大阪造幣局寮等に設置されたという記録が残っています。陶器製の便器も、1891年(明治24)の濃尾大震災後に普及しはじめ、関東大震災後には大普及しました。昭和30年に発足した日本住宅公団(現住宅都市整備公団)は、新しい住宅設計や設備をとおして、日本人の生活を大きく変えてきました。その最たるものが、椅子に腰掛けて食事するダイニングキッチンスタイルで、もうひとつが洋式トイレです。水洗トイレが標準仕様とし、登場したのは昭和30年頃のことで、この時は和風大小両用便器で、当初は和式が採用されていましたが、昭和33年に大阪で洋式が初採用されて以来、全面的に洋式トイレになりました。洋式トイレは大小兼用でコンパクトかつ衛生的である点、また膝や姿勢に負担がかからず、とくに日本人に多い脳卒中や痔疾の予防によいという点などが普及の理由です。当時、このはじめての便器の登場で、洋式なのにまたいだり、和式便所なのに腰掛けたりと、座り方がわからず戸惑いをもった人がいたのも無理はありません。

 現在、トイレは温水洗浄便座、抗菌便座、自動脱臭便座などの登場により、快適な生活空間の一部となりつつあります。

ちなみにウォシュレット(シャワートイレ)は、TOTOが1980年6月に開発・発売したものが最初です。お尻だって洗ってほしいという当時のCMのキャッチコピーは斬新でした。

現在キャンプ場や山小屋などでは、バクテリアの働きで糞尿を自然に戻す「バイオトイレ」が実用化されています。そして、トイレは更に進化をつづけ、近い将来、便器に座るだけで健康状態を管理することができるトイレが登場する可能性もありそうです。

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水回り歴史よもやま話:洗面化粧台

  今は浴室の手前隣りにあるのが当たり前の洗面所ですが、浴室と共に家の中につくられるようになったのは、昭和30年代以降からです。ですから、洗面台は水回りの機器の中では最も歴史が浅いといえます。それまでの洗面は、台所の近く、たらいや桶で済まされていました。上水道の普及とともに浴室が家の中につくられるようになってからもしばらくは、脱衣室という専用スペースはありませんでした。しかし、入浴のために脱衣する空間として前室が必要になり、脱衣室が生まれ、洗面台が浴室前に置かれました。
 脱衣室とセットになったのは単に「水回りをまとめる」という考えからで、これは漏水や水跳ねが多かったことと、施工上、コスト上、水回りを近くに配置するメリットがあったからで、利便性を優先した考えからではありませんでした。
 その後、洗面所も徐々に変化してきました。 朝の洗顔中心であった洗面所も、脱衣場、身づくろいするスペースとして、さらに湯水を使って化粧を行う場など、その機能、形態は多様化して行き、使いやすさや、利便性で現在まで進化してきました。

 

洗面台、現在までの流れ

昭和30年代
壁掛け洗面器ができる。
(収納キャビネットがないタイプ)

昭和40年位
住宅公団向けの収納キャビネット付きの
洗面化粧台ができる。

昭和42年位
幅広で座るタイプの
一般家庭向け洗面化粧台ができる。

昭和50年位
今の形の洗面台ができる
(当時は高さが720mm)

昭和60年位
シャンプードレッサーができる。
(朝シャンブーム)

 

  現在のスタイルの元となった昭和60年(1985年)の『シャンプードレッサー』は、洗面化粧台でシャンプーするためにTOTOが開発してヒットした商品ですが、当初は、小物が洗える大型の洗面台として売り出されました。なかなか売れ行きが伸びずにいたところ、当時1980 年代半ばには、朝食を抜いてもシャンプー(洗髪)する女子高生が大半をしめているとのトレンドがあり、各地で女子高生を中心に朝シャンブームが起こっており(これはシャンプーメーカーが発売した朝専用シャンプーなどがきっかけでした)、TOTOのその大きな洗面台で、毎朝出かける前に髪を洗っているとのことで、これに合わせ、『シャンプードレッサー』というコンセプトを掲げ、再度売り出したところ、これがブームに乗って大ヒットしました。大容量の洗面ボウルと、ホースが伸びるハンドシャワー式吐水口はこの時に誕生し、温度調節はサーモスタット式を初めて搭載されました。また、排水口は、髪を詰まらせないようにヘアキャッチャーが搭載されました。

1986 年には行為としての「朝のシャンプー」(略して「朝シャン」)が流行し、1987 年、「朝シャン」が新語・流行語大賞にも選ばれました。初めてリンスインシャンプーなるものが登場し、流行しました。

 

 

 この大型洗面ボール台は、TOTOを皮切りにほぼ各社同時発売しています。洗髪できる洗面台は、現在でも引き継がれており、一般的な洗面台となりましたが、もし朝シャンブームがなければ、洗面台もまた違った形になっていたかもしれません。なお、『シャンプードレッサー』はTOTO㈱の登録商標です。

 

 

出典元:TOTOミュージアム

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水回り歴史よもやま話:給湯器

 給湯器のお話はまずガスの歴史から始まります。日本でのガス産業は、横浜の地で幕をあけました。高島嘉右衛門(たかしまかえもん)という実業家が神奈川県庁からガス灯をつくるよう頼まれ、1872年(明治3年)に「日本社中」を立ち上げました。彼は、横浜市の神奈川県庁と大江橋から馬車道・本町通りまでの間に、ガス灯十数基をズラリとならべ、1874年(明治5年)9月26日、いっせいに火をともしました。このようにしてガスは、照明用として広まっていきましたが、熱としても使われるようになったのは、明治30年代で、ストーブやアイロン、コンロ、湯わかし器などが次々に輸入され、日本でも作られるようになりました。
 しかし、明治になっても内風呂を持っている人は少なく、あっても江戸時代の武家屋敷と変わらず、便所とともに離れに置かれたままでした。大正時代になって徐々に浴室や便所は住宅の中に入ってきました。一坪で浴槽と洗い場をつくれて、衛生、経済、防火の三徳があるとのことで五右衛門風呂が造り付け風呂の主流になりました。その後、ガスが熱として使われ始め、初めて、ガス給湯器の国産第1号が発売されたのは35年後の1930年(昭和5年)でした。給湯器の需要増大は、それから、25年後、戦後の混乱期をくぐり抜けた1950年代でした。
 そのきっかけというのもシャワーという入浴習慣を持つ進駐軍が、ガスのインフラ整備やガス器具開発を強く要望したという背景もあり、1950年代後半(昭和30年)、一般にはまだまだ、内風呂は贅沢であり大都市では銭湯全盛の時代に、ガス会社が積極的に風呂釜の提供を拡大し、それまでの薪・石炭という固形燃料からガス・石油へと大きく転換を遂げていきました。

国産第一号給湯器

 1965年(昭和40年)頃は台所のガス小型湯沸かし器、内風呂が普及する中で、湯沸かし器市場はシャワーニーズの高まりにより、中型湯沸かし器でのセントラル給湯の時代を迎えようとしていました。関西では風呂釜は屋外で種火を着けて、浴室からリモコンで本火に着火する方式が一般的でしたが、冬の夜は外に出るのも辛いし、種火が消えることもあり、うっかり空焚きによる家事の危険もありました。

 こんな中、1970年(昭和45年)に種火安全装置を備えて、浴室から点火、着火できるマジコン付き風呂釜は大ヒットとなり、その後の風呂釜のスタンダードになりました。

出典元:キッチン・バス工業会

 一方関東では風呂釜は屋内設置で煙突により排気ガスを屋外に排出する方式が主流でした。1955年(昭和30年)から建設が始まった公団住宅でもこの方式が採用されましたが、気密性の高い集合住宅では不完全燃焼に起因する事故が増加し、東京ガスの指導で、屋外の空気を直接取り入れ、屋外に排気ガスを出すバランス型給排気方式風呂釜が、1965年(昭和40年)に量産化されました。このバランス釜は戸建て住宅においても長く基本パターンとして採用されていくことになりました。

 1970年(昭和45年)にはハンドシャワー付きや上がり湯が使える画期的なシャワー付きが公団住宅採用化で普及拡大し、浴室シャワー化の一翼を担いました。

 一方でガス機器吸排気の安全面では屋外設置がベターであり、東京ガスからも屋外設置機器開発を強く要求されており、試行錯誤の末1975年(昭和50年)屋外設置専用型が発売され、この時以来、ガス風呂釜、給湯器は急速に屋外設置型が基本となっていきました。1977年(昭和52年)もともとガス機器への電気導入はタブーといわれていましたが、その既成概念を覆した台所リモコン、セミ貯湯式の屋外設置給湯器が発売され、新しい分野を形成することとなりました。

 その後給湯付き風呂釜は、マイコン導入、自動化と技術変換していくことになりますが、1980年(昭和55年)には送風ファンによる強制通風燃焼が開発され、ついに従来の2分の一にまでダウンサイズされた給湯器が登場しました。現在までの給湯機の基本パターンはこの時、形成されたものです。

 この頃ほとんどの家電製品が自動化されている中で、お風呂準備には、2度3度と浴室に足を運ぶ必要がありました。お湯をあふれさせり、熱くしすぎたり、そんなことからもお風呂の自動化は当然の開発方向でした。1983年(昭和58年)には戸建て住宅に対して全自動化発売、1984年(昭和59年)には集合住宅に対して発売にこぎつけました。

 当初は浴槽金具の水位センサーを読み取る方式でしたが、機器の水位センサーで浴槽水位を自動検知し、マイコン制御を採用となったのは1987年(昭和62年)でした。

 現在当たり前のようにある給湯器も様々な時代背景や過程の上に存在していることがわかります。

 長い歴史の中で進化してきた給湯器は、今や現在の暮らしには欠かすことのできない生活必需品となりました。  給湯器はお風呂を沸かしたり、食器を洗ったりする等、使いたいときにすぐお湯が使える便利な住宅設備機器です。もちろん、ガスというエネルギーが生み出した機器ですが、その進化は壊れたからただ取り替えるものから、環境や自らのライフスタイルに合ったものを選択し、暮らしの向上へ役立てるものとして立場を変えてきました。ちょっとずつの進化の積み重ねが今の給湯器になったのです。

出典元:キッチン・バス工業会